「古代から室町時代の吾妻(久米)地域」実施報告

11月28日(月)、松が丘Yuiの一緒に考える会「古代から室町時代の吾妻(久米)地域」を開催しました。


<久米の松田さんによるお話>

日 時:2022年11月28日13:30~15:30
テーマ:古代から室町時代の吾妻(久米)地域
場 所:松が丘中央会館
報告者:松田福男さん(久米の歴史を綴る会のメンバー)
参加者:男性17名・女性9名(計26名)

今回の勉強会では、私達の住んでいる吾妻(久米)地域は、どのような歴史を経てきたのか、そして、先代から受け継がれた人々の暮らしについて、久米の松田さんにお話をしてもらいました。今回の参加者では、男性が多いのが特徴でした。

1.お話の内容

■吾妻地区の地形:武蔵野台地と狭山丘陵
■吾妻地区の歴史:旧石器時代から古代
・旧石器時代(約35,000年~13,000年前)
・縄文時代(約13,000年~2,500年前)
・弥生時代(2,500年前~3世紀)
・古墳時代(3世紀~7世紀後半)
■奈良・平安時代 (7世紀後半~12世紀)
・「東山道武蔵路」武蔵国府(府中市)から下野国府や上野国府を結ぶ支線 幅12メートルの道路
・「東の上遺跡」東山道武蔵路周辺で発見された遺跡
・「悲田処」
■鎌倉時代
・「村山党」狭山丘陵を支配したといわれる武士団
・「山口城址」下山口にある城跡
■鎌倉幕府と村山党
・「鎌倉街道」鎌倉時代以降、都市鎌倉と各地を結ぶ、中世の道の総称
・「新田義貞の鎌倉(北条氏)攻め」、「将軍塚」
■室町時代

配布資料(注:カーソルを画面上に置くと、左下に矢印がでます。矢印でページ送りができます)
配布資料(古代~室町)

2.質疑

● 悲田処跡がどこにあったかは不明である。市の発掘調査が不十分では?
⇒ 機会があれば市に話をします。

● 古墳から発見された勾玉・切子玉・ガラス製小玉等の副葬品は地元で作ったのか、交流でもたらされたのか?
⇒ 交流でもたらされたものだと思います。黒曜石のナイフや矢じりも発見されていますが、これは長野県や神津島からもたらされたものであることがわかっています。

● 中国・朝鮮からもたらされた灰褐色の須恵器などが使われていたとは、朝鮮から輸入されていたのでしょうか?
⇒ 朝鮮半島との交流で作り方を真似したり工夫して作ったものと思われます。

● 悲田処跡の「悲」は「悲しい」という字ですが、「いたわる」とか「いつくしむ」とかいう意味ではないでしょうか?
⇒ 字の由来はわかりませんが、そのような意味も入っているのだと思います。

● 小手指原古戦場・将軍塚・久米川古戦場の碑文が異なっている。郷土の歴史を正しく伝えることが大切ではないか?
⇒ その通りです。

● この地域の地形についても知りたい。
⇒ 八国山は火山灰で軟弱地盤もあるが、家を建てるときには対策はされている。扇状地で高い場所なので水はけもいいです。

● 吾妻村の由来は?
⇒ 残念ながらはっきりわかっていません。

自分たちの住んでいるところの歴史を調べるのは 郷土資料を丹念に読み込み、言い伝えを聞くなど、大変な努力が入ります。今日の松田さんのお話にインスパイヤされて、ご自分でも調べてみませんか? そして、その結果を報告して頂けると最高です!

(注)勉強会の後で「悲田処」について調べました。
・悲:仏教で、他人の苦しみをとりのぞいてやろうとする、あわれみの心。
・悲田:仏語。貧者・病人など哀れみを受けるべき者。恵みを施すことによって福果を得られるところからいう。
・悲田処:平安時代初期の天長10(833年)、武蔵国多摩郡と入間郡の境に設けられた布施屋。飢えや病気に苦しむ旅行者の一時救護所・宿泊所としての役割を果たした。

参考資料

・久米の歴史を綴る会(2015)『久米の歴史―その生い立ちと時々の物語』
・所沢市(1991-92)『所沢市史 通史上・下』

松が丘Yui    共同代表 小林義一・岩本哲夫

コメント